2021/11/27

 ある晴れた日を想像しよう。そこには何があるか。というか、そこにはなにもなくていいのだ。晴れた日に、誰もいない公園に、影がある。影があることによって、その分の光がなくなってしまっている。実際にはそこに人が立っていて、その分の光を受けて、眩しそうに公園の隅の、小さな遊具に乗った子どもを見ている。子どもは男の子でも女の子でもいいだろう。夜のような目。彼はその子どもを、ばらばらに壊したいと思っている。肩掛けポーチには折りたたみ式のノコギリが入っている。それから注射器。痛みは、形がないのに、実体化するかのようで、面白い。漫画などにおいて、話す言葉が、石をぶつけるような絵となって、対象に作用することに、ずっと関心を持ってきていた。公園が彼におりてきたのだ。あるいは、ただ砂場で、まるで砂丘かなにかのように、そっと寝そべり、だれも来ないはずなのにだれかが来ることを待っているように、息をしている。空が夕焼けであることに気づかない。あるものはあとからやってきて、べつのものは最初からある。でもあとからやってきたものが、最初からあるものを支配する。音楽は楽しい。でもやっぱりそれも、一瞬で崩れ落ちる家のようなものだ。あるいは海辺に打ち寄せる波のひとつひとつにキャプ、とかミュウ、とかピョップ、とかパロマスターヘッドギア、と名前をつけるようなものだ。声だけで、笑顔がある。煙にとけこんでしまう人々がいる。鋏は錆びていて、腕時計さえ切れないが、うどんを切ることはできる。もちろん想像上のピラミッドの中での話だが。落ち着いて、話を聞いてほしい。その少年あるいは少女は、いまや遊具をあそばせているのだ。もう公園はぐらぐらゆれているのだ。宇宙との境い目から、地中深くまで、公園であると言い張るのだ。おそろしいことだ。そこに変な車がある。車には足が六本ある。もちろん足はぜんぶ笑っている。車には座席がない。なぜ変なのか、いまでは説明がつかない。ただ彼らにはわかっていた。あともう少しで、この薄いバリアーを、サランラップを突き破るようにピリピリっと突き破って首に負荷がかかりながらも海の底に触れてから急いで海面に顔を出すように新鮮な空気を吸うことができると。どんなことでも難しい。その薄いバリアーはガラスのように硬く、透明で、見えないものかもしれない。日のひかりの加減で、ガラスは鏡にもなるから、ぼくはどんどん後ろへ下がっていって、壁にぶつかり、そのときはじめて壁に囲まれていることに気づき、壁が体のようにとけてしまうことを願っている。もうすぐ、方向ではないある極地から、知らせの手紙が来る。赤い手紙か、青い手紙か。変な液体がついていたら、それはきっと、過去のぼくの精液だ。