2021/09/28

 部屋の隅に猿が座っているのに、彼女は目もくれず、野菜を食べていた。水道の蛇口からは水がぽたぽたと落ちていて、窓ガラスには蛙の死体が張り付いていた。布団にはカビが生え、天井には蜘蛛の巣が張り巡らされている。でも彼がその部屋に来て、まず驚いたのは、彼女が裸であったことだった。仕事場では無口で、誰ともかかわらず、存在感も薄い彼女が、彼のデスクの上に手紙を置いて、要件と、自分の住所を書いてあるのを読んだとき、はじめて彼女をまともに意識したその相手が、ほぼ初対面といってもいいような関係のその相手が、裸でいるだなんて。でも彼が呆然と彼女を見ていても、彼女は一向に彼の方を見ようとはしない。彼と彼女の間にはガラスの板があって、こっち側では見えるのに、向こうからは何も見えないし聞こえないかのようだ。何のために呼んだのだろう、とはもちろん思わない。要件は知っていたから。ぼくはとりあえず足元のゴミをよけて、彼女の前まで行った。彼女の裸は、近くで見ると、醜かった。

2021/09/27

胸のうちでバラがうずもれながら花ひらくような気のくるいを ずっと感じてる 幻はふさぎこんで動揺しているのを風景のなかに見てとる 少女はみなうつくしいと老人はしわだらけのからだで言った なにを間違えたのだろう どうして獣が煙のなかで堕胎するのだろうしたのだろう古い古いひからびたふぃるむのうつるぼくのほほえみはみにくい 空 川のいみふめい わずかな気配でふりむくと焼けたこどもたちが全校集会でうたってる きっと〜あしたはくる〜 どこまでも〜つづくみち〜 すべてはくちのなかのできごと 悲鳴がきれいだったきもちがらくになった 空 かわいてもぬれてもいない せかいの軸からからだがはずれて なんか見てるってふしぎだって めがいってる

2021/09/26

 ぼくを吹き飛ばそうとする風はぼくの息じゃない。山の向こうから風が吹く。ぼくの体は肉体におさまることができないからといって、空の高さを知るわけではないけど、空がぼくの心象だと思うとき、すがすがしい思いがするんだ。きれいな空。きみのなめらかな肌を思い出す。雨が怒りのように降り注ぎ、ぼくはびしょ濡れだ。空は雲に覆われて見えないけどあることはわかってる、ないなんて言わせない。
 ないよ、なにもない、そこにはなにもない、あの向こうにもなにもない、ぼくらは生贄で、生きる価値なんてないよ。
 なにありふれたこと言ってんの、あんたの骨、からから鳴ってる、吊り下げられているからだよ、馬鹿みたいにさ! 痛いのは見ることだけじゃない、ただいるというだけの痛みを喜ぶんだね。
 せかいは真っ平らだから、静かな淀みのなかで、心地よく眠るきみを、起こす気にはならない。何書いたっていいんだ。そうやってぼくを不安にする。首のことだけを書けよ。幻は言うだろう。ぼくの幻は、消失することによって存在する。
 いつまででも、いつまでも、白黒映画のように、みんなの目と同じ色で、それなのに。半年かけて書いたノートを、端から燃やして、それをフィルムカメラで撮ったよ。写真は真っ黒だった。光が極まって、焼き尽くしたんだ。太陽のような痰を飲み込む。きみが泣いているからといって、ぼくとは無関係だ。
 無関係だよ。

揺籃

 かたちのないもの、意味や、音だけのもの、考えて、耳をすます。家という家が、洪水によって、そのどろどろとした濁流によってぐちゃっとつぶれながら流されてしまうように、この部屋で、見えるものが、見えないものになってゆくように、けれど決して、透明になるのではなく、とけてしまうのでもなく、空気やそこにふくまれるちりやほこりなどといっしょに、濃度はそのままに、もしかすると色水が混ざるように、あの砂とこの砂が掻きまぜられるように、轟音の手前で、あらゆる予兆のただ中、まったくこれっぽっちも関係がないというように、始まったのだ。この体、ただただあるというだけでよかったはずの体、絶えずかすかに揺れている体は、よく見ると流れている、感覚だけが、言い知れないむくろとして、ほのかな文字以前として、想像することができた。もちろん想像も、笑い声も、うつくしいと感じたときの忘れがたさも、もうこの部屋では通用しない。確かにあるのは、かたちのないもの、その中を、泳いでゆくように、体が、ではなく、水が、泳いでいるように。紙を引き裂いたとき、なにかが終わったと、すくなくともぼくには、感じとることができたから、もうなにもなくても、それが、始まりだったから。

 眠っているとき、夢を見て、朝食を食べているとき、それを目覚めていると言わないとするなら、実際に目覚めているとき、目覚めていないわたしは、眠っていると言えて、そういったことを、大きなことばや小さな言葉、強いことばや弱い言葉で形づくることは、もうそこにぼくはいないから、目が境界となってあっちとこっちを、目ではないもので見ることで、体もそれ以外もほろほろとくずれて、なにかを言おうとする口、その発せられるはずの、あるいは発せられるかもしれないことを聞こうと身構える耳、無関係に水滴が垂れる鼻、針のように見えるがそれは壁に張りついたもうひとりの目が感じとる底知れないひかり、もちろんこのぼくが(このわたしが)ふたつの音楽を同時に流すことで、一致したり乖離したり拡散するように、それはやがてなにも聞こえないことになっても、もう取り返しはつかないから、わずかに汚れた、そう炭や油で汚れた一冊の哲学書に、もうちょっとだけ赤いペンで文を囲って、いつか自分自身になにも語ることがないときに読み上げて、もう少し、もう少しと、先延ばしにすることを、認めてはくれないか、きみは。